理深解微

6/22のブログです。

こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。

ここのところの雨によって冠水していた本堂下の地下駐車場ですが、思ったよりも被害が大きそうです。建替えに向けていろいろな荷物を置いていたのもありますが、この季節なので放っておくと蚊が発生してしまう恐れがあります。乾くのを待つかぁと悠長なことを言っていられない状況みたいです。

ということで、この手のことは母がリーダーになり進めるのが法善寺の慣わしです。母が床に溜まった水をスコップで掻き出し、それを私がモップを使って外に持っていく、という連携でした。地道な作業でしたが、やればやるほど効果が出るもので、最悪の状態は脱した気がします。

根本原因となっていた、排水溝のつまりも解消しましたし、恐らくこれで梅雨は乗り切れるんじゃないでしょうか。いよいよ東京も梅雨入りしたそうなので、このまま何もなくいきたいところです。

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理深解微

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都知事選が始まって二日経ちましたが、様々な情報が錯綜しています。そんな中でニュースでよく目にするのが、候補者が乱立してポスターがとんでもないことになっている、ということでしょうか。NHK党はその枠を実質販売して候補者の宣伝に使っているという報道もあり、真偽は分かりかねますがごちゃごちゃしていることは確かです。

仏教では、理深解微(読み方は、りじんげみ、とする場合が多いみたいです)という言葉があります。理とは仏教において説かれる真理のことです。お釈迦様が亡くなってから時間が経てば経つほどに、『理深くして理解できるものは微かになっていく』という形で使われます。

この言葉を勉強した時には、『そんなもんかねぇ』くらいにしか捉えられませんでしたが、ここ最近はこの言葉を痛感しながら生活しています。仏教における真理という意味だけでなく、時代の編纂と共に我々人間はどんどん劣悪になっている気がします。

お釈迦様の時代に比べたら遥かに文明は発達し、遥かに豊かになり、文明の利器と言えるものに囲まれながら生活しています。なのに、いや、だからこそ、我々は怠惰になり、人としての資質が落ちていっているような気にさえなります。

昔は目覚まし時計が無くても時間通り起きられた人がいたのに、今は目覚まし時計を使っても寝坊する人がいます。昔は明確なルールがなくても常識が歯止めをかけていたのに、今は常識が通用せず何でもかんでもルールで縛らなくてはいけなくなっています。

これらは一例ですが、なんかどんどん頭を使わなくなってきている気がして怖くなります。正確に言えば、一部の人はめちゃくちゃ頭を使っていて、その恩恵を受ける人は頭を使わなくなっている、という感じでしょうか。また、人として正しい方向に頭を使えていない人も多くなっている気がします。

いろいろ言いましたが、これらはたかが私の一つの価値観でしかありません。お金を稼げれば何でもいい、有名になれれば何でもいい、と考える人もいますので、そことは相いれないのも分かっているのですが、なんだか悲しくなってしまいますね。

今日もブログをお読みいただき、ありがとうございます。マジで、どんどんルールが増えてて生きづらい。

南無阿弥陀仏

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