愚者と賢者

3/27のブログです。

こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。

今年度も最終週となりました。年が明けてからはあっという間で、もう3ヶ月、つまり一年の25%が終了したことになります。今週は、毎年恒例というか、法人としての義務である、年度の締め作業などをぞろぞろと行なっていきます。

#誰か擬音の使い方を教えてください

今年度は世間の変化が激しい年だった気がしますが、来年度は法善寺としての変化が激しい歳になりそうです。その筆頭は建替えのスタートで、それによってお寺の運営などに大きな影響を及ぼしていきます。もちろん事前準備もしますが、やってみなきゃ分かんねえ部分も多く、柔軟に対応していければなと思っています。ご迷惑おかけすることもあるかと思いますが、ご理解賜われますと幸いです。

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愚者と賢者

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情報化社会と言われて久しい現代ですが、その言葉を最早誰も口にしなくなるぐらい、世の中は情報に溢れています。インターネットの影響がもちろん大きいのでしょうが、人間というのは自分に関係のない情報でも楽しく扱うことのできる、稀有な生き物なんだなと思います。人様の不倫などをワイドショーなどで扱うのが良い例です。

まあ例にも漏れず私も情報に溺れている現代人の1人ではありますが、誰かから聞く、自分にとって近しい人や事柄の情報ほど鵜呑みにしないようにしています。『〇〇さん、△△らしいよ』とか『■■って、✖︎✖︎なんだって』とか、その対象が自分にとって遠くて関係のない存在ならどうでも良いのですが(芸能人の不倫とか)、友人だったり、知人だったり、どこかのお寺さんだったりした場合には、自分自身の目と耳で一次情報に触れるまでは素直に信じないようにしています。

やっぱり一次情報に触れないと見えてこないこともありますし、悪気はないと思いますがどうしたってその話し手の方の思いや偏見が入ってきてしまうものです。それが悪いということではなく、人間というのはそういうものだと思っていますので、『へー、そういう見方もあるのか』程度に抑えておいて、あとは自分自身で判断するようにしています。噂話を噂話のまま広める、ということはしないように心掛けているつもりです。

自分的にはこのやり方が正しいと思っているのですが、世間一般には『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』という言葉があります。もしかしたら少し意味合いが違うのかもしれませんが、自分の経験したことしか信じないのは、どうやら愚者なのかもしれません。賢い人は歴史、つまりは他の方からの経験談を信じ、そこから学ぶわけです。噂話を信じるのが賢者である、というつもりはありませんが、『やってみなきゃ分かんねぇ』とか言ってる奴は賢者ではなさそうです。

ただ、そう考えていくと、賢者とは一体誰のことなのでしょうか。世界の国々のリーダーたちが賢者であれば、戦争は世界から無くなっているはずですし、世界はもっと平穏になっているはずです。ただ現実では、世界は歴史を繰り返し続けています。戦争だって無くなる気配はありませんし、もしかしたら近々どこかで核爆弾が投下されてしまうかもしれません。

人間は結局、完全なる賢者になることは難しいですが、一部は努力してみたり、または賢者のように振る舞うことは出来るのではないでしょうか。とあるお坊さんからは、現世では仏にはなれないけれども、仏のような人にはなれる、と言われました。自分は愚者だから、と完全なる愚者に甘んじてはいけなくて、賢者を目指し、賢者のように振る舞うことが大切なはずです。

今日もブログをお読みいただき、ありがとうございます。あぁ、賢者になりたい。

南無阿弥陀仏

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