11月の声明の会
11/19のブログです。
こんばんは。
法善寺住職の中山龍之介です。
早いもので、また一週間が過ぎ去っていきました。自坊での報恩講を終えて2週間経っていることにも驚いていますが、そう感じるのもそれなりにバタバタとした日々を送っているからかもしれません。有り難いことです。
ちなみに昨日の夜は、上の2人の子供たちがお寺の母のところにお泊まりだったため、初めて一番下の娘だけと夜を過ごしました。
4年前、息子一人の時はあれだけ大変だったのに、今回はめちゃくちゃ楽に感じます。3人目が大人しいということもありますが、自分自身の成長も感じられています。母も楽しそうでしたし、またちょこちょこ預かってもらおうかなと思います。
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11月の声明の会
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そんな今日ですが、毎月恒例の声明の会がありました。毎月第3日曜日の午後三時からですので、是非ご参加ください。次回は12/17です。
声明の会では、まず偈文やお経を読み、その後に雑談交えながらの正信偈の解説を行っております。ゆっくりゆっくり解説してましたので終わる日がやってくるのか先が見えない時もありましたが、今日含めてついに残り三回というところまで来ました。
そして今日のパートは、下記のとおりです。
本師源空明仏教
憐愍善悪凡夫人
真宗教証興片州
選択本願弘悪世
本師源空(法然上人)は仏教に明らかにして、
善・悪の凡夫人を憐愍(憐れに思い)し、
真宗の教・証を片州(日本)に興し、
選択本願を悪世に弘めたまう。
法然上人とは、浄土宗の開祖であられるお方で、親鸞聖人のお師匠さんです。この方からお念仏による救いを教えていただいたことで、親鸞聖人はお念仏の道を歩まれることを決意いたしました。
念仏を称えるというのは、誰でも出来る易行と言われています。煩悩まみれの我々でもできる行がこのお念仏でありまして、だからこそ今日まで多くの方々に連綿と受け入れられてきたのだと思います。
阿弥陀仏は、摂取不捨と言いまして、どんな人をも摂め取り見捨てません。自分の力だけで何不自由なく暮らしていると勘違いしている内は、阿弥陀仏な存在には中々気付く事ができません。
なにか壁にぶち当たったとき、自分の力ではどうしょうもない事が起こったとき、人はなにかに縋りたくなります。
こんな煩悩だらけで、生きているだけで罪を造り続ける自分でも救われるのだろうか、と悩み苦しむ私達に救いの手を差し伸べてくれるのが阿弥陀仏であり、『南無阿弥陀仏』というたった6文字のお念仏によって我々は救われることが出来るわけです。
自力の限界を知り、自分の罪を知り、そこでようやく阿弥陀仏のお救いに気が付くわけです。こういった手順を踏まないと、どうしても言葉ばかりのお念仏になってしまいがちです。こういった経験を踏まえることで漸く、信心の具わったお念仏になるんじゃないかと思います。
今日の声明の会では、こんなお話をさせていただきました。口語を文字に起こしたので齟齬があったり伝えたいニュアンスに微妙にずれが生じてしまったかもしれませんが、優しい目で見守ってくださると嬉しいです。
今日もブログをお読みいただき、ありがとうございます。お念仏は前向きだということを伝えていきたいなぁ。
南無阿弥陀仏
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