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本願寺学院2年目 前期レポート公開①

こんばんは。

法善寺副住職の中山龍之介です。


本日は先週に提出した学院のレポートを公開させていただこうと思います。月曜日の授業は浄土真宗の歴史を勉強する『真宗史』。昨年は親鸞聖人の生涯を勉強しましたが、今年は聖人以降にどのように浄土真宗が宗派として確立されていったかを勉強しています。


そんな中、レポートのテーマは『本願寺の起源』でした。親鸞聖人の娘にあたる覚信尼(かくしんに)、曽孫にあたる覚如上人(かくにょしょうにん)がどのように本願寺を興し、浄土真宗を宗派として確立させていったかをレポートにまとめました。


拙筆ですが、ご覧ください。

 

本願寺の起源について

本科二年 中山龍之介


 本願寺というと京都の東西や東京の東など、浄土真宗の本山として知られている。私も勉強する前は、元々本願寺は親鸞聖人によって造られたものだと思っていたが、実はそうではなかった。親鸞聖人が亡くなった後に、娘である覚信尼(かくしんに)やその孫である覚如上人(かくにょしょうにん)、その他にも多くの弟子たちの影響などによって本願寺は興ったのである。


 親鸞聖人は亡くなる前、自分の遺骨は鴨川に流してほしいとおっしゃっており、自身の墓を造ることを望んではいなかった。しかし没後、親族や弟子により荼毘に付せられ、大谷に傘塔婆の石塔が建てられた。初めはそれだけであったが、それでは寂しいと覚信尼や弟子によって廟堂が建てられ、ここから大谷廟堂と呼ばれるようになった。この廟堂には東国の門徒などが、聖人の命日である11月28日に集まるようになっていった。東国とは今でいう関東地方のことで、親鸞聖人が遠流赦免の後に布教をした場所である。


 元々この廟堂が建てられた土地は、覚信尼の二番目の夫である小野宮禅念(おののみやぜんねん)のものであった。後に覚信尼に譲られ、更に後には東国の門徒に譲られることになる。覚信尼は東国門徒に土地を譲る際に、この土地は墓所として使用する、東国の門徒へ寄進する、管理は自分の子孫が務める、という旨を残している。その頃の東国は、親鸞聖人の直弟子が知識と呼ばれる指導者となっており、それが段々とエスカレートして、その指導者が絶対的な存在として崇められる、いわゆる知識帰命(ちしききみょう)と呼ばれる状態となっていた。


 覚信尼の後に大谷廟堂の後継者になったのは、その長男である覚恵(かくえ)であった。覚恵は覚信尼の最初の夫との子で、異父兄弟に唯善(ゆいぜん)がいる。本来であれば元々の土地の所有者であった小野宮禅念との子である唯善こそが廟堂の後継者に相応しいように感じられるが、覚信尼の最後の置文において、覚恵が後継者であると残されている。これはおそらく、廟堂の護持を第一に考え、また唯善の人柄を鑑みた結果であろう。この置文を残したのち、間もなくして覚信尼は亡くなった。


 その覚恵の息子であり、親鸞聖人の曽孫にあたる、本願寺興隆の主役である覚如上人は、才覚にあふれ十七歳の時に得度した。東国を巡見した際には曽祖父にあたる親鸞聖人の直弟子にお会いし、聖人の偉大さを知ることになる。結婚した後にそれまでの興福寺を離れ大谷廟堂に居住することになるが、この時に親鸞聖人が説いた教えの独自性を謳うために、報恩講式や親鸞聖人伝絵を製作している。この報恩講式は今でも、親鸞聖人の御命日である十一月二十八日までに七昼夜行われる、報恩講で活用されている。


 この覚如上人と廟堂を争うことになるのが、覚信尼と禅念の息子である唯善である。唯善は大谷廟堂の南に新たに土地を購入し、東国門徒の助けも得ながら自分の立場を確立させていった。唯善は幾度も大谷廟堂を自分のものにしようとするが、結局青蓮院(しょうれんいん)の採決により敗北、最後には廟堂を破壊し親鸞聖人の御木像や御遺骨を持ち去り逃亡してしまった。


 残された覚如上人は、廟堂の復旧を進めた。この頃から、廟堂には親鸞聖人の御影が納められたことから大谷御影堂(ごえいどう)と呼ばれるようになった。しかし覚如上人はすぐには東国門徒に、御影堂の管理をする留守職に就くことを認めてもらえなかった。覚如上人と唯善、この二人の争いにより多額のお金がかかったことなどで、東国門徒の中では唯善だけでなく覚如上人に対しても不信感が募っていたようである。覚如上人は、この誤解を解くために十二箇条懇望状を書かれており、これは唯善が行った悪行を正に反面教師にしたものであった。それでも高田門徒の指導者であった顕智(けんち)の猛反対などがあったが、顕智の没後に覚如上人は何とか留守職に就くことが出来た。


 その後覚如上人は、東国門徒の支配からの脱却を目指し、そして独自の道を歩むため、大谷御影堂に専修寺(せんじゅじ)という寺号を掲げる。しかしこれは専修念仏を嫌う比叡山から横やりが入り、本願寺と改めた。これが今日まで続く本願寺の興隆である。


 このように、本願寺は様々な思惑が渦巻く中で誕生したのである。綺麗事ばかりではなかったであろうが、そこには覚如上人が親鸞聖人を偉大な僧侶として敬っていた気持ちがあったことは間違いない。覚如上人は、そんな親鸞聖人の教えを、報恩講式や親鸞聖人伝絵の製作などで、他の宗派とは違う確立した教えとして際立たせ、そしてそれを後世に伝えるために本願寺を造られたのである。

 

いかがでしたでしょうか?ご質問やご意見ありましたら何なりと!


明日は火曜日の授業『真宗学』のレポートを公開させていただきます。是非ご覧ください。



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