本願寺学院1年目 後期レポート公開②
みなさん、こんにちは!
法善寺副住職の中山龍之介です。
前回のブログに引き続き、本願寺学院1年目のレポート公開をしていきます!今回は水曜『仏教史』と木曜『三経七祖』のレポートです!
ちなみに今回の写真は、お釈迦様が初めてお説法をされた初転法輪の地、サールナート寺院です。
どうぞ、ご覧ください~
水曜日:仏教史
四聖諦・八正道について
四聖諦(ししょうたい)と八正道(はっしょうどう)というのは、釈尊が悟りを開いた後に初めて説法した、いわゆる初転法輪(しょてんぼうりん)の場で話したものと言われている。これは、輪廻から解脱するため、自らの悟りの内容を理解させるために組織立てたものである。
まず四聖諦というのは、この迷いの世界の四つの真理のことで、一に苦諦(くたい)、二に集諦(じったい)、三に滅諦(めったい)、そして四に道諦(どうたい)である。
苦諦とは、人生は苦である、という真実である。なぜならば人間の欲望は満たされなく、全て思い通りにならないからである。この苦は生・老・病・死の四つ、更に愛別離苦(あいべつりく 愛する人と別れる苦)・怨憎会苦(おんぞうえく 憎い人に出会う苦)・求不得苦(ぐふとっく 求めても得られない苦)・五蘊盛苦(ごうんじょうく 自身の体と心が思うままにならない苦)の四つを加えた、四苦八苦という言葉に集約される。
集諦は、その苦の原因は渇愛である、という真実。渇愛というのは煩悩や欲望が尽きない様を、喉の渇きに例えてそう呼ばれる。
滅諦は、その苦を滅した状態が涅槃である、という真実。渇愛しているため、身口意による業が生じ、その業が苦を作る。この連鎖を断ち切り苦を滅することで、人は涅槃に入ることが出来る。
そして最後の道諦は、滅諦に到るまでの八つの道『八正道』を指す。これは、まず心に関するものが二つあり、『正見(しょうけん)』『正思惟(しょうしゆい)』である。正見とは文字通り、正しく見ることで、つまりは四聖諦を正しく見て仏法を理解することを意味する。正思惟とは正しい意思のことで、正しく考え判断することを指す。
次に、道徳に関するのが『正語(しょうご)』『正業(しょうぎょう)』『正命(しょうみょう)』の三つである。正語というのは正しい言葉を意味し、正直であり、弁舌に無駄がなく、人を傷つけないことである。正業というのは正しい行為を指し、殺生や偸盗や不邪淫を離れること。そして正命とは正しい生活を指し、正しい手段で衣食住の糧を得ること、しいては規則正しい生活を意味する。
最期に瞑想に関するのが『正精進(しょうしょうじん)』『正念(しょうねん)』『正定(しょうじょう)』の三つである。正精進とは解脱に向かって進む正しい努力で、四正勤にまとめられる。次に正念とは正しい覚醒で、端的に言うと注意を怠らないことを指す。最後に正定は正しい集中で、心の平静(涅槃)を得るための精神統一を指す。
ではこの四聖諦・八正道というのは現代の我々の生活においては何を意味するのか。
苦諦では、人生は苦であるという真実が説かれている。しかし現代に生きる我々にとって、楽しいことが世に溢れているため、この真実に気付くのは、釈尊存命の当時より難しいと感じる。しかし楽しいことには必ず、金銭的や肉体的な代償が付き纏い、それを永遠に続けることは難しい。つまりは、本質に目をつむってはいるものの、やはり苦からは逃げられない。四苦八苦はまさにそれを言い表していて、人間の避けることのできない苦しみが示されている。人間だれでも、辛いことがあると『何で自分だけ・・』と思ってしまうが、決してそうではない、と四苦八苦は明らかにしている。愛する人が亡くなることや、憎い人が現れることなど、全て四苦八苦の中で説かれている。これを知ると、自身に苦が訪れても『この世界は、こういうものだ』と受け入れることが出来、その結果、苦を和らげることが出来る。
集諦は、苦の原因は渇愛である、と説いている。渇愛とは煩悩や欲望のことであるが、これらを正しく見ることが出来ないと、振り回されて苦に陥ってしまう。例えば、ご飯を食べるときに、空腹だからと言って自分が本当に食べられる量以上のものを頼んで、無理に食べたり残したりして苦しんでしまうのも、その一つであると思う。少欲知足(しょうよくちそく)とも言うが、どの程度で自分には足りるのか、その欲の量を知ることが大事である。
滅諦は、苦を滅した状態が涅槃である、と説いているが、浄土真宗の教えでは現世往生しないため、そのままは当てはまらないであろう。どうあっても煩悩具足の身である我々衆生にとって、この迷いの世界で涅槃に到ることは不可能だからである。しかしそんな我々であっても、阿弥陀仏の計らいによって臨終後にさとりが約束される、つまりは正定聚(しょうじょうじゅ)の機に入ることが出来る。浄土真宗においては、この正定聚の機に入ることが、滅諦であると考える。
そして最後の道諦・八正道は、正定聚の機に入るための八つの道である。よく、浄土真宗は修業も戒律もない宗派だ、と言われることがあるが、この四聖諦・八正道は宗派を超えた仏教全体の基本的な考え方なので、八正道を実践することは浄土真宗の僧侶や門徒にも求められることであろう。
冒頭の通り、四聖諦・八正道は釈尊が初転法輪にて説かれた内容である。つまり、いかなる仏教徒も、大事にしなければいけない教えである。きちんと理解し、そして現代の我々の生活に落とし込んで実践することが必要であると感じた。
木曜日:三経七祖
観無量寿経について
観無量寿経、略して観経は浄土三部経の一つである。この浄土三部経とは中国の善導大師という高僧が確立したもので、これによって浄土教も確立されていった。そして、その善導大師によると、観経は五つのパートに分けられる。それが序分、正宗分、得益分、流通分、そして耆闍分である。
まず序分は、いわゆる王舎城の悲劇の話から始められる。息子である阿闍世王子に投獄された韋提希夫人が、この忌々しい娑婆世界に嫌気がさし、釈尊に極楽浄土を見る方法を尋ねる、というところから始まっていく。
次に正宗分では、釈尊により十六観が説かれる。この十六観とは、心・精神を集中させて阿弥陀仏と浄土を観想する十三の定善と、日常の心のまま論理や道徳にかなった行いで、仏道を歩む我々の生き様を見る三つの散善に区分される。
得益分では、それらを聞いた韋提希夫人や、侍女までもが悟りの眼を開くことが示される。
流通分では、釈尊が弟子である阿難に、無量寿仏の御名を末永く称えるよう言われる。
そして最後の耆闍分では、その阿難が耆闍掘山(霊鷲山)にて、この釈尊の説法の内容を話して聴かす、という構成になっている。
観経では、前述したような表向きの意味である『顕』だけでなく、その裏に込められた本当の意味『隠』を読み解くことが重要である。正宗分で説かれる十六観の内、散善が三つあるのは、衆生を上品・中品・下品に分類しているからである。さらに一つ一つを上生・中生・下生にし、それぞれに合わせた浄土往生するための行(善根)が説かれている。これを九品往生と言う。
元々、上品は大乗聖者、中品は小乗聖者、下品は大乗始学の凡夫の堕落したものとされていた。しかし善導大師は、上品とは大乗の教えに出会った凡夫、中品は小乗の教えに出会った凡夫、下品は悪に出会った凡夫と読み解き、そこに聖者はいなく全て凡夫であるとした。つまり観経では、観想すること(定善)と、諸々の善根をつむこと(散善)が説かれているが、それらは方便で、下品上生・下品下生にある称名念仏こそが、この観経の結論で正定業であると、善導大師は読み解いた。定善・散善を味わうがそれらの難しさに気付き廃し、易行である称名念仏に辿り着き、それを立てる。これが念仏廃立(はいりゅう)である。
では、なぜ称名念仏が他の行を差し置いて、勝れた行であると言えるのか。この疑問に対して、親鸞聖人の師である法然上人は、阿弥陀仏の大本願である第十八願に称名念仏が説かれているからだとした。『乃至十念せん』という言葉がある通り、阿弥陀仏の一切の功徳がその名号に内包されているので、称名念仏こそが勝れていると読み解いたのだ。
そして親鸞聖人は、そこから更に称名念仏に対しての考えを昇華させていった。法然上人は、念仏を称えることを重要視していたが、親鸞聖人はその称名念仏を行ずる時の信心こそ重要だと説いた。その信心とは、言わずもがなだが、他力の信心、つまりは阿弥陀仏からいただく信心のことである。親鸞聖人は、観経に説かれる定善・散善はこの他力念仏に導くための仏の方便だとし、三願転入を説いた。つまり、最初は定善・散善の自力諸行に出会い、凡夫にはそれを成し遂げられないと知る。次に自力諸行から離れ、自力念仏に出会うが自力の限界に気付く。そして最後に他力念仏に辿り着くのである。
つまり、観経は顕から見ると観仏三昧を説いており、これは自力で聖道門の捉え方である。一方、隠から見ると念仏三昧を説いており、これは他力で浄土門の捉え方である。そして観経に説かれる浄土往生に必要な三種の心、三心も親鸞聖人によって顕と隠が読み解かれた。
三心とは、至誠心・深心・回向発願心を指す。『三経要義』によると、至誠心とは真実心とも言い、顕では、衆生が自らの心を励まし善を行い悪を行う心を指す。隠では、衆生は内心虚仮にして悪性止めがたく、たまたま真実の行をなしても、それは雑毒の善、虚仮の行に過ぎないから如来回向の真実心を用いるべきと言っている。つまり、至誠心とは仏が衆生に回向する真実心を指している。
次に深心は、顕では自己所修の善根によって往生できると信じる心を指す。隠では、自力無功(効)を信知すること、そして弘願他力に帰する心を指す。つまりは、衆生の無力を知り(信機)、仏の本願を知る(信法)ことを言っており、これを二種深心と呼ぶ。
最後に回向発願心は、顕では、自他の善根を浄土に回向して往生しようとする心を指す。隠では、如来の真実心中より回施された善根(称名念仏)を受取り、往生決定の思いを成すことを指す。つまり観経の三心は、第十八願の至心信楽欲生の三心に相応しているのだ。
これらのように、観経では表向きには諸行往生が説かれながらも、それらは方便で、他力念仏へと導くための第一歩として読み解かれる。それ故に、観経は弥陀の第十九願(至心発願の願)に、阿弥陀経は第二十願(至心回向の願)に置き換えられ、最終的に大経つまりは第十八願(至心信楽の願)へと導かれている。これを正因三願と呼ぶ。
浄土真宗では大経が最重要視され、そして阿弥陀経が最も読まれる経典であるが、そこに辿り着くための第一歩として、観経も疎かにしてはいけない経典である。
以上です!これで全レポートを公開させていただきました!いかがでしたでしょうか?
意外と同級生も見ているとのことでお恥ずかしいですが(笑)、一般の方々に少しでも仏教のことが伝わればうれしいです。お読みいただき、ありがとうございます!
南無阿弥陀仏
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