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9月の声明の会

9/15のブログです。


こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


早くも9月が折り返し、お彼岸がじわじわと近づいています。今年の秋のお彼岸は昨年よりも一日早くて19日から、気が付けばあと四日です。


姉に頼んでいる御朱印を明日取りに行き、書き込んだり云々と準備を進めていかなければいけません。一日早いだけで随分急かされている気がしますが、ただの準備不足です。巻きで頑張ります。


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9月の声明の会

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今日は声明の会がありました。お経などを読むパートは相変わらずなのですが、その後のお話で現在は歎異抄を扱っています。歎異鈔は親鸞聖人と唯円というお弟子さんとの対話録と言われていて、(時には誤解されてしまうほど)分かりやすく親鸞聖人の教えが説かれています。


今回は第二章の後半で、親鸞聖人が法然上人のことを『よきひと』、つまりは善知識として敬い信頼していたことが描かれたパートでした。ちなみに、今回の東京書作展でも書かせていただいたパートもここです。


この場合、善知識というのは師と仰げる人のことを指します。善知識に出遭えることなんて、人生でそうそうあることではなく、むしろ一人も出遭わずに生涯を終えることもあると思います。


ただ、親鸞聖人は法然上人に出遭えてラッキーだなぁと言うのは違っていて、親鸞聖人が自分が救われる教えを本気で探していたからこそ、出遭えたわけです。しかも出遭った最初から善知識として師事していたわけではなく、いくつもの質問を何日も何日も重ねる内に、そうなっていったわけですね。


それだけ本気だった親鸞聖人ですから、法然上人への信頼は本当に篤く、だからこそのこの第二章の内容になっていくわけです。法然上人にだまされて地獄に落ちるのならば仕方ない、とまで言っています(それに続いて、念仏より他の行を修めることも出来ない自分ですから、となりますが)。


法然上人に出遭えた親鸞聖人のことを、ラッキーと一言では言えませんが、大変幸せなことだったんだろうとは思います。そんな出遭いがこれからの私の人生においてあるのは、もしくはもう出遭っているのかは分かりかねますが、そういったご縁は見逃さずにいたいとは思います。


今日もブログをお読みいただき、ありがとうございます。声明の会へのご参加、お待ちしています。



南無阿弥陀仏

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