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学院1年目 前期レポート公開 ~月曜日~


みなさん、こんにちは!

法善寺副住職の中山龍之介です。

(今回の写真は、当寺の本堂にある法然上人像(左)と親鸞聖人絵像(右)です。この写真を使った理由は、最後まで読んでいただければお分かりになると思います)

前回の更新から、お彼岸があり、更に学院の前期レポートの作成に追われておりまして、久々の日記となってしまいました。私の日記を楽しみにしてくださっている日本全国の方々、申し訳ございません。(はい、自意識過剰です)

さて、タイトルにもありますが、今回から本願寺学院の前期レポートを公開させていただきます!

本願寺学院ではどんなことを勉強しているのか、浄土真宗の教えとはどのようなものなのか、みなさんに少しでも知っていただけたらと思い、さらけ出すことにしました!

第一回目は月曜日の『浄土真宗史』のレポートです。このクラスのレポートは2つありました。

1つは、親鸞聖人の御消息を読んでの感想を400字程度。

この御消息というのは、親鸞聖人が関東のお弟子さんたちに宛てた手紙のことです。その中から私は、 末灯鈔二十に載っている御消息を選んで感想を書きました。

この御消息は、浄土真宗の教えを『念仏さえしていれば何をしても良い』と間違って受け取った弟子たちに向けての手紙です。

(全文を載せると長くなってしまいますので、気になる方はこちらからご覧ください。(2)の段落です)

そしてもう1つは、親鸞聖人がなぜ法然上人に会ったのか、そしてそこで何を学んだのか、これを800字程度にまとめました。ご存知の通り、法然上人は浄土宗の開祖で、親鸞聖人の師匠に当たる方です。

それでは、拙いレポートですが、どうぞご覧ください。

 

親鸞聖人の御消息を読んで

私がこの御消息を選んだ理由は、私がそれまでに疑問に思っていたことに親鸞聖人がお答えになっていたからである。その疑問というのは『南無阿弥陀仏を称えていれば何をしても良いのか?』というものである。

浄土真宗は、南無阿弥陀仏を称えれば救われる、と広く理解されている。更に僧侶であっても他宗のような修業をすることがなければ頭も剃らない。この2つは事実ではあるが、それによって『浄土真宗は南無阿弥陀仏を称えれば何をやっても良い』と言われることも少なくない。私もこれを疑問に感じていた。

しかし親鸞聖人は、この御消息の中でその考えをしっかりと否定されている。『クスリアリヲコノメトサフラフランコト(良薬があるからと言って毒を好んではいけない)』とおっしゃっている通り、阿弥陀仏のお救いがあるから何をしても良いということではない、とおっしゃっているのだ。また、かつては放逸無慚であっても『マコトノココロヲコラセタマイナンニハ、イカデカムカシノ御ココロノママニテハサフラフヘキ(真実の信心がおこった時には、どうして昔のお心のままであるはずがあるでしょうか)』とおっしゃっている通り、真実の信心が発った時には、放逸無慚な心のままであるはずがない、ともおっしゃっている。この御消息を読んで、私の長年の迷いは晴れた。

 

親鸞聖人の比叡山下山と吉水入室

親鸞聖人は元々学問の家系であったが、9歳で慈円の元で出家得度をした。丁度この頃世間では、日常的な僧兵の争乱、養和の大飢饉、元暦の近畿大地震などが起こり、末法と囁かれていた。

そんな時代の中、親鸞聖人は比叡山で修行を始めた。この比叡山で聖人は、堂僧として勤め、論議や常行三昧といった修行に取り組んでいった。しかし親鸞聖人は、これらの修行では満足することができなかった。なぜなら聖人は、煩悩が具わった赤裸々な人間の心のままに覚りを見出そうとしていたからである。この時期、源信の往生要集に出会い観想を試みるなど、阿弥陀如来の本願の心を感じ取られた。ただここではまだ、『猿猴の情尚忙わしく』と言われる通り、心の中は晴れきっていなかった。

次に親鸞聖人は、最澄よりも更に、日本仏教の根本に戻ることを考える。和国の教主と言われた聖徳太子である。当時も太子信仰は篤く、最澄や慈円だけでなく、宗派を超えた多くの僧侶が慕っていたと言われている。

このようにもがき続けた親鸞聖人は、神仏の霊場を参拝して回り、六角堂にたどり着く。そこで参籠するのだが、そこで同時に太子にひたすらに救いを求める民衆の願いに触れた。この民衆とは普通の凡夫を指し、それは聖人が比叡山で修めたものとは反対のものであった。この六角堂で聖人は百日参籠を始め、九十五日目に示現(夢によるお告げ)を得て、法然上人に会うために吉水へ向かった。

法然上人は浄土宗の開祖である。幼いころから比叡山で長く修行に努めるも心は晴れず、また天台宗が説く自力による悟りは末法の世に合わないと感じるようになった。浄土宗総合研究所編の『法然上人とその門流』によると、論理と現実に乖離があり、三学(戒・定・慧)を保って修行できる者などいないのだから、その三学を前提とした天台宗は画餅に等しい、と当時の天台宗を評していた。

そんな中で法然上人は、源信の往生要集を読み、念仏の教えを学んだ。その念仏とは称名念仏(阿弥陀仏の名号を声に出すこと)と観想念仏(阿弥陀仏の姿かたちを思い浮かべること)の二つがあったが、善導大師の観経疏に触れ、称名念仏に廻心した。

親鸞聖人もこの法然上人の考えに触れたが、初めはこれを受け入れるのは『難が中になお難し』であったと言われている。しかしその原因は自身の疑いの心であることを悟り、ついには廻心することが出来た。求め続けていた、凡夫が救われる道を見出すことが出来たのである。そして聖人の気持ちは晴れていき、他力の称名念仏を広めていった。

 

これが浄土真宗史のレポートでした!

次回は火曜日、浄土真宗学のレポートをお届けします!お楽しみに。。。

南無阿弥陀仏

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