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学院1年目 前期レポート公開 ~火曜日~


みなさん、こんにちは!

法善寺副住職の中山龍之介です。

前回のブログから引き続き、本願寺学院のレポートを公開していきます!

今回は火曜日に受講している『浄土真宗学』のレポートです。この授業のレポートは『二河白道について』です。

二河白道というのは、中国の高僧である善導という方が阿弥陀仏の救いを二つの河に例えたお話です。ざっくりと言うと、画像の様に、人の底知れぬ欲望を表した『水の河』と、燃え上がる怒りや憎しみを表した『火の河』、この二つの河の間にかかる細い白い一本の道こそが極楽浄土への道、すなわち他力の信心である、というお話です。

今回のレポートでは、この二河白道の感想を2000文字程度にまとめました。それでは、拙いレポートですが、どうぞご覧ください。

 

善導 二河譬について

善導大師が説かれた二河白道の話は、浄土教の教えを上手く言い表している。話の中に登場するものは全て、何かしらの比喩とされている。

その比喩とは、旅人は自分自身、東の岸は迷いの娑婆世界、無人空廻の澤とは真の善知識(仏教の正しい道理を教え、利益を与えて導いてくれる人)に出会えない様、西の岸は極楽浄土、水の河は貪りや執着の心(貪愛・とんない)、火の河は怒りや憎しみの心(瞋憎・しんぞう)、旅人に迫り来る盗賊・毒虫・獣は間違った考えを持った人々や惑わす人々、水火の間にかかる白道は清らかな信心、とそれぞれ表されている。そして、その旅人を導くのが、釈迦の発遣と弥陀の招喚である。釈迦の『その道を進め』という発遣と、弥陀の『この道を迷わず来たれ』という招喚である。これにより旅人は、細く険しい白道を渡ることになる。

ここで、二河白道を詳しく考察しようと思う。まず東の岸である娑婆世界、そこには盗賊や毒虫などに例えられた間違った考えを持った人々や私を惑わす人々が多く存在している。また荒野が広がり、真の善知識にはどうにも出会えない。様々な人々に翻弄されながらも二河の前にたどり着いたが、そこにもまた貪愛と瞋憎が広がり、旅人は逃げられない。娑婆世界にうごめく間違った考えを持った人々、自分の心の中にうごめく貪愛と瞋憎の心、これらに追い詰められた時に二河の真ん中にかかる白い一本の道が見える。細いけれども確実に存在しているその白い道こそが、阿弥陀仏の救いである。旅人は初め、本当にこの道は渡れるのだろうか、と考えたはずである。頼りないほど細く、貪愛と瞋憎の波が打ち寄せているからである。しかしそこで、釈迦の発遣と弥陀の招喚を聞く。そしてそれらを信じ、進むことを決心し見事、浄土往生するのである。

このように、白道を信心とするならば、信心は自分で作り出すものではなく、与えられるものだという事がよく分かる。二河に譬えられる貪愛瞋憎渦巻く我ら衆生の心の中に、阿弥陀仏が授けてくださっているものである。その白道に対して、釈迦は我々の背中を押し、弥陀は我々を受け入れてくれる。故に浄土真宗の『絶対他力』ということが言えるのである。

戻るも死、留まるも死、行くも死という三定死のこの状況下で、旅人は白道を渡ることを決心するのだが、その時の心境と、親鸞聖人が法然上人の教えをいただいたときの心境が近いと私は思った。旅人は『戻るも死、留まっても死、行っても死。どれも免れられない死であるのならば、この道を信じ前に進もう』と言っていた。それに対し、親鸞聖人は歎異抄の中で『たとひ法然上人に賺されまゐらせて~~いづれの行も及び難き身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。』と、おっしゃっている箇所がある。私はこれの意味を『元々は死んで地獄に堕ちるような煩悩具足の我が身であるのだから、阿弥陀仏の本願を信じ、信心をいただき、念仏を称えよ。それで救われなくても悔いはない』という意味だと解釈した。この表現のシンクロからも、二河白道の比喩は浄土真宗の教えを上手く表していると思った。

この二河白道の話は教行信証の信の巻において、親鸞聖人が説かれる三心の内の一つである回向発願心を表したエピソードして紹介されている。三心とは、至誠心・深心・回向発願心の三つで、浄土に往生するための正しい因のことである。

まず至誠心とは真実の心、嘘いつわりの無い心を指す。この深心を持って法蔵菩薩は身口意の三業によって行を修められ、阿弥陀仏となられた。次に深心とは、深く信じる心。何を深く信じるのかというと『我ら凡夫は今後も迷いの世界を離れる手掛かりがない』更には『弥陀の誓願は我ら衆生を救う』という二点である。最後に回向発願心とは、浄土に往生しようとする願いを指す。

つまり、法蔵菩薩は至誠心を持って行に励み、四十八願を立てて阿弥陀仏となられた。我々凡夫はそのはからいを深心し、仏が行ぜよと仰せになるものに行ずる。また回向発願心によって、我々衆生でも間違いなく浄土往生できる、と仏は仰っている。この三心が備われば、全ての行は成就し、故に願と行が成就するので浄土往生しないわけがない、ということである。

よく友人などに『宗教を信じているのか』と聞かれることがあり、何となくいつも回答に困っていた自分がいた。僧侶という職業であるから、『信じている』と答えるのが正解だと思いつつも、自信を持って答えられない自分がいた。ただ、本願寺学院に通うようになり浄土真宗の勉強をしていくと、浄土真宗の場合は、信じるのではなく、信じさせていただく・信心を頂くという教えであり、これが自分の中ではしっくりと来た。圧倒的な阿弥陀仏という存在の前に、それを信じる・信じないという自分の迷いはなく、ただ阿弥陀仏に信じさせてもらうのだ、と感じた。

 

以上です!次回は水曜日、仏教学についてのレポートを公開します!懲りずに見てやってください(笑)

南無阿弥陀仏

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