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与えられた恩徳に感謝したい

9/29のブログです。


こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


早いもので、本日札幌から東京に戻ります。報恩講のお手伝いで伺っていましたが、季節の変わり目で喉の調子がよろしくなく、きちんと貢献できたのか分かりません。一応精一杯のお勤めはさせて頂きましたが。


そんなわけで、報恩講にて最後にお読みする和讃『如来大悲の恩徳は、身を粉にしても報ずべし』という言葉をありがたくいただきながら、喉を捧げるつもりでお称えさせていただきました。また来年呼んでいただけることがございましたら、成長した姿(喉)で帰ってこられればと思います。


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与えられた恩徳に感謝したい

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冒頭で触れた和讃ですが、その後に『師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし』と続きます。いわゆる恩徳讃と呼ばれる和讃でして、声明の会とかの最後に皆さんでお称えしたりします。報恩講の最後にも読まれますし、一番有名な和讃かもしれません。


前提条件として、和讃というのは親鸞聖人が著されたものです。正信偈のような漢文体ではなく、かな交じりの親しみやすい形で浄土真宗の教えが説かれています。原則として、5文字と7文字の文節から出来上がっていて、日本語として美しく、耳に残る構成になっています。


話が戻って恩徳讃の和讃ですが、まず如来大悲とは阿弥陀仏のことを指しています。如来は仏様というのはご存じの方も多いかもしれませんが、後半の大悲は我々の苦しみを除いてくださる存在である、という意味になります。


阿弥陀様は大慈大悲とも言われたりしますが、慈しみは楽を与え、悲しみは苦しみを抜く、という意味です。そんな阿弥陀様の恩徳というものは、我々の身を粉にしても報ずるべきである、というのが前段です。


後半の師主知識というのは、師匠や正しい教えを持って導いてくださる方(これを善知識と言います)のことを指しています。阿弥陀様のお救いを説いてくださった親鸞聖人、そしてその教えを今日まで紡いでくださったのが師主知識の方々です。


そんな師主知識の恩徳には、骨を砕いても感謝すべきである、というのが後段です。感謝感謝の気持ちが表されているのが、この恩徳讃なのかもしれません。


与えられてばかりではなく、きちんとそこに感謝の気持ちを抱ける人間でありたいものですが、なかなかそれすらも難しく。もっと立派な人間になりたいものですが、何をどうすれば良いのかも分からなく。ホントまだまだな人間だなと思う今日このごろでございます。


今日もブログをお読みいただき、ありがとうございます。まずは今年中に、100点の体調を実現したい。



南無阿弥陀仏

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