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人間の理性という薄い皮一枚下のどうしようもない部分

7/22のブログです。


こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


今日から27時間テレビが始まっているんですね。気が付けば7月も下旬に入り、学校はすっかり夏休みモード。息子も幼稚園の終業式が先週あり、夏休みに突入しています。保育園の時は夏休みとかありませんでしたので、平日でもどこにもいかない息子に、こちらが慣れません。


友人のSNSを見ても夏祭りや盆踊りの様子がアップされています。暑すぎて逆に実感がありませんでしたが本格的な夏突入したわけで、それによって少しずつ夏の終わりが近づいていることも感じさせます。特に意識していませんでしたが、なんだかんだ夏が好きなのか、寂しい気持ちも湧いてきます。まだまだ暑い日は続きますが、1日1日噛み締めるように過ごしていきたいと思います。


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人間の理性という薄い皮一枚下のどうしようもない部分

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2、3歳の子供を見ていると、人間本来の欲求と言いますか習性と言いますか、理性という薄い皮一枚下のどうしようもない部分が見えてきます。


眠たければ機嫌が悪くなるし、ご飯を食べていても飽きればどこかに旅立とうとしますし、やりたくないことは徹底的にやりたくなさそうです。別に私自身が立派な人間だとは思っていませんが、そんな我が子よりは理性という皮を纏っているなぁと感じます。


普段我々はなんとなく、理性があるものだと思って行動したり人と接したりしています。改めてそこを意識することもなく、ある意味それを前提として生きているわけですが、子供を見ているとそんな前提はあくまで建前なんだなと気付かされます。そして大人になっても人間も所詮動物で、理性よりも感情で動くことのほうが遥かに多いものです。


お寺では法要の際に法話をさせていただきます。『阿弥陀仏とは〜』とか、『縁起とは〜』とか、『悟りとは〜』みたいな話を自分なりに理論立てて話をするわけです。それはそれで大事だと思っていますが、同じくらいに、本堂に入った瞬間に味わう厳かな気持ちであったり、お墓参りした際に感じる安心感だったり、そういった理論立てできない感情面もとても大事だったりします。


お坊さんの法話は本堂を出たら忘れる、と言われたりしますが、言葉では言い表せない感情面の方が、遥かに強く心と頭に記憶されるのかもしれません。そもそも感情ではなく理論だけであれば宗教は存在しないはずで、宗教に対する根本の欲求も『理性という薄い皮一枚下のどうしようもない部分』から発せられているのではないでしょうか。


そう考えると、法話のスキルを磨くことと同じくらい、本堂の荘厳をととのえたり、境内を綺麗に保つことが大事であることが見えてきます。神は細部に宿る、と言いますが、仏様の教えも細部に宿っている、のかもしれませんね。


今日もブログをお読みいただき、ありがとうございます。合理的だと思っていますが、自分も所詮感情の生き物であります。



南無阿弥陀仏

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