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他人の感性を信じる器

6/10のブログです。


こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


今日は、お寺の仕事もありながら、さらに子供達の予定に付き合う形でバタバタと過ごしていました。上の子はプールに行き、下の子は来年から入園予定の幼稚園でプレ保育(体験的な感じです)でございました。昼寝させる暇もなく夜ご飯とお風呂に突入したため、ただいま19時半ですが2人ともすでに就寝しています。


子供の体力って無限だなーと思うこともありますが、彼らはギリギリまで全力で走り切り、体力がなくなったらすぐに寝る、という習性みたいです。単純ですが、そんな全力さがまた可愛いんですね。たくさん遊んだので、良い夢見ていると思います。


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他人の感性を信じる器 ================


今年で36歳になりますが、これくらいの歳になってくると、自分自身の得手不得意や好き嫌いが分かってくるものです。また、初めてお会いする人でも、第一印象で何となく合うか合わないかが分かってきている気がします。20歳過ぎたら人間の性格は変わらないというのも聞いたことがあり、それはさすがに言い過ぎだろうとは思いながらも、なかなか性格の変わらない自分がいたりします。


こうなってくると、素早く取捨選択できるのは良いことですが、自分の感性にそぐわないものに触れなくなってしまう、というデメリットもあります。特に現代では、インターネットなどでは勝手にフィルターがかけられていることも多く、今までの自分が触れてきたものに酷似したものしか表示すらされないようになっています。


YouTubeとかでも顕著ですが、いわゆるトップYouTuberでも私は知らない人が多いですし、みんな知っているようなヒカキンとかはじめしゃちょーの動画でも、私のオススメに上がってきたことはありません。そして恐らく見たところで、あまり面白いとは思えないんだと思います。


ただ、だからと言って、自分の感性にそぐわないものを全て否定するのも違います。特に世代が違えば感性も違いますので、下の世代や上の世代が良いと言っていて、自分にはそぐわないものでも、『その人たちには良いんだから、良いものなんだろう』と受け入れることも大切です。


お寺では幅広い年齢層の方々と接します。何か行事を企画する時にも、私1人の感性で考えていては宜しくありません。妻や母や、時には総代さんにも力を貸していただきながら進めていくのが、お寺にとっても有益なんだろうな、と遅まきながらも最近思い始めました。


ただ、意外と他人の感性を信じるというのは難しいものです。『自分は心から良いと思ってないけど、本当に大丈夫だろうか』となってしまうことだってあり得ます。そういう時に、それでも受け入れる広い器があれば良いなと思うのですが。そう考えると、父は(ただ無頓着だっただけの可能性もありますが)そこらへんの器の広さは持ち合わせていたなぁと思ったり、思わなかったり。


今日もブログをお読みいただき、ありがとうございます。器って後天的に広く出来るのかしら。いや、きっと出来るはず。



南無阿弥陀仏

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