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僧侶としてどう生きるか

7/5のブログです。


こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


ギックリ腰生活も6日目、日常生活にはほぼ問題が無いところまで治ってきました。座ったり立ち上がったりするときに少し気を使ったり、信号がチカチカしているのに走れなかったり、くしゃみするのがどうしても怖かったりしますが、色々なことにビビりながらも生活は出来ていますし、実際にはただのビビりすぎである可能性も高いです。ただやっぱり再発は怖いので、あと1週間くらいは慎重に生活していきます。


『とどめを刺す』と言われたカイロにも行ってきましたが、施術後に『あと一ヶ月は来なくて大丈夫です』というお墨付きを頂きました。ギックリ真っ最中は『明日来てください』と言われていましたので、それだけ良くなったという事です。


何にせよ、ギックリ腰が癖にだけはならないよう、気を付けてまいります。ここ1週間は何かと動き出しが遅いかもしれませんが、大目に見て頂けると幸いです。


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僧侶としてどう生きるか

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さて、先日NHKの『ノーナレ(ナレーションのない30分間)』という番組で、京都のとあるお寺が特集されていました。内容についてあれこれ言うのは割愛いたしますが、その中でお寺の方が『まずは私たちが幸せでないといけない。幸せじゃないと人も集まって来ないんだから』と仰っているワンシーンがありました。シンプルでしたが、なるほどと思わせる一言でした。


前提として、この方の仰っていることは大変理解できます。ただ私は個人的に、お寺は苦しんでいる人の受け口となるんだから、お寺の人も苦しみながら生きないといけない、と思っていました。


言葉悪く言えば、世俗から離れて、ちゃらんぽらんと生活していたらダメだ、ということです。これは別に、大部分のお寺さんがちゃらんぽらんに生活していると言っているのではなく、我々仏教者こそ苦しみから逃げずに生活することを心に留めておかないといけないな、ということです。


ただし、前述の言葉も納得できるものでして、このことを妻に話をしたら『確かに、あまりにも辛気臭いお寺には誰も来ないよね』と言われ、更に納得しました。私のことを思い返しても、やっぱりプラスのオーラを発している人と付き合っています。一緒にいるだけで気持ちが落ち込んでいってしまうような人とはあまり付き合っていません。


お寺もそうなはずで、あまりにも暗い雰囲気なお寺には人が寄ってこない。何だか楽しそうなお寺には人が寄ってきます。事実、子供が生まれてからの方が、お寺の池に鯉を覗きに来る人が増えた気がします。特に何かを打ち出したわけではありませんが、小さい子供が発する明るい空気が法善寺を包んでいるのかもしれません。


そう考えると、あえて変に、卑屈に、人一倍苦しみにいかず、きちんと人としての幸せを求めていく姿の方が良いんじゃないかと思えてきました。そしてそんな想いから、昨日は娘のお食い初めのことをブログに書かせていただきました。リア充してんなと思われたら嫌だなとか思っていましたが、そういう一面もお伝えするべきだろう、という判断です。


ただもちろん、明るい記事ばかりではなくて、現実に向き合った内容も書いていきます。要は、等身大のお寺・僧侶をお届けしていきます。


お寺で生活しているからこそ、お檀家さんから見られているからこそ、人としての幸せって何なんだろうかとよく考えます。お檀家さんに応援されるお寺になるためにも、前を向いて歩んでいこうと思っています。


これからも法善寺をよろしくお願いします。



南無阿弥陀仏

 

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