【再掲載:パネリストインタビュー】市橋俊水氏(真言宗豊山派布教師)
2/18のブログです。
こんばんは。法善寺住職の中山龍之介です。
2/23に開催される、世界三大宗教間によるパネルディスカッション、第2回『宗教を知ろう』まであと一週間となりました。ということで、今日から3日間は通常のブログをお休みして、パネリストの方々のインタビューをお届けいたします。本日は、真言宗豊山派布教師の市橋俊水さんです。
元々は2020年9月に開催する予定でしたので、こちらのインタビューはそれより以前に掲載したものの再掲となります。少し情報が古いところもありますが、パネリストの方々の経歴や人となりが伝われば幸いです。
それではご覧ください。
第2回『宗教を知ろう』パネリストインタビュー
真言宗豊山派布教師 市橋俊水氏
中山:
本日はお時間頂戴しまして、ありがとうございます。インタビュー、よろしくお願いいたします。
市橋さんは現在、真言宗豊山派の布教師としてご活躍されていますが、元々お寺のご出身だったんでしょうか?
市橋:
そうですね。私はここ、明王院というお寺に生まれました。女の双子だったんですが、父は男の子が欲しかったみたいでがっかりしていたそうです。そのせいか放任主義の父親でした(笑)
母は在家(お寺ではない家)の出身で、私たちを産んだ時は20歳そこそこでした。そんな若い女性がお寺で働きながら双子を面倒見るのは大変だったみたいで、よく私たち双子は家の中で置き去りにされていた記憶があります。そのせいか、あまり自我が無く、自己主張をしない子供でした。
中山:
ご両親も、若い中でお寺の仕事をしながら子供の面倒を見るのは大変だったんでしょうね。小さい頃は自己主張をしない子供とのことですが、ご自身が段々と大人になっていく中で変化はありましたか?
市橋:
高校生くらいまではあまり上手く自己主張が出来なかったと思います。ただその反動か、そこから大学にかけて自我が爆発してしまいました(笑) 奇抜な格好をするようになり、親からは家に帰ってくる時も「裏口から入れ」と言われるくらいでした。
その辺りから、自分の道は自分で決めようと思い、大学ではグラフィックデザインや空間デザインを学んでいました。飲食、服飾、インテリアと1年毎にアルバイトを変え、4年時には輸入雑貨の会社で働くための内定を取りました。しかしそのタイミングで親戚筋の方から、『会社でデザイナーを募集しているから来てほしい』と声を掛けられ、そちらで働くことを決めました。
中山:
自我が爆発してしまったんですね(笑) でもそれが、自分の意思を強く持つようになったきっかけにもなったとのことで、面白いお話ですね。
グラフィックデザイナーとしてはどういったお仕事をされていたんですか?
市橋:
私が働いていた会社は、広告代理店のプロデューサーが経営する会社でした。ジュエリー系のクライアントが多く、それまでの自分とは違う世界を見られたことはとても良い経験でした。ただ、行事用などに徹夜をして命を削って制作した作品が、その行事が終わるとすぐに捨てられてしまうことにとてもショックを受けました。
結果的には2~3年働いたのですが、その経験から『昔からの物が残っている場所に行きたい』と思い、パリに行くことを決意しました。
中山:
それはまた、大胆な決断ですね!
市橋:
昔からの物が残っている、という理由だけではなく、誰も知り合いがいなくて、日本語も通じないところに飛び込みたいという気持ちもありました。決意してから会社を辞め、1年間派遣社員として働きながらお金を貯めました。バブル期だったおかげか、パソコンもろくに使えない私でも雇ってくれました(笑) 周りの方々もとても優しくて、辞める時には餞別でカメラをプレゼントしてくれたのを今でも覚えています。
中山:
良い思い出ですね。そこからいざパリに向かうわけですね。
市橋:
そうですね。100万円だけ握りしめてパリに飛びました。そのときは、日本に帰ってくるつもりはありませんでした。
中山:
そうなんですか?それにしては100万円だと少ない気がしますが。。。
市橋:
後先はあまり考えていなくて、とにかく生きることに必死でした(笑) 最初は何も知らなかったので、パリで一番高い1区(ルーブル美術館などもある高級エリア)に住んでしまい、お金を節約するために引きこもっていました。そこから生活する中で、パリでも郊外は安いという事を知り、段々と中心地からは遠くに住まいを移していきました。
また、私はフランス語の勉強もろくにせずに行ってしまったのですが、とある日に教会の前にあるベンチに座っていたら、近くで話している人たちの言っていることが分かるようになりました。そこからはフランス語を話して、パリを味わうことが出来るようになったと思います。
中山:
結構行き当たりばったりだったんですね(笑) 市橋さんの逞しさを感じます。
『帰ってこない』とまで決意して行ったパリですが、日本へ帰国するのには何かきっかけがあったんですか?
市橋:
パリで3年ほど過ごしましたが、向こうでは人と『魂の付き合い』をすることが出来、心が洗われました。そして、ここで経験したことを生かして働きたいと思うようになりました。また、お寺の生まれという事もあり仏教には興味がありましたし、フランスでも仏教は知っている人には好評でした。
以前、お寺の檀家さんが、当時住職であった父の話を聞いて『良いお話だった』と仰っていました。私からすれば、『ろくでもない父がそんな良い話をするはずがないじゃないか』と思ったのですが、檀家さんが嘘をついているようには見えなかったので『もしかしたら仏教がすごいんじゃないか』と考えるようになりました。
これらがきっかけとなり、『つまらなかったら辞めよう』という気持ちで大正大学に入学して仏教の勉強を始めました。ちなみに今でも、『つまらなかったら辞めよう』という気持ちに変わりはありません。
中山:
そういう気持ちだったのに今でも僧侶として生きられているという事は、仏教に面白さを見出したという事でしょうか?
市橋:
そうですね。自分が寺の生まれだからとかは関係なく、仏教は面白いと思います。私の場合、そう思わせてくれたのは大正大学時代の教授でした。スタンスがとても面白い方で、私は入学して最初の1年くらいはしょっちゅう飲みに連れていっていただき、色んなお話をさせていただきました。
中山:
良いご縁を頂けたんですね。そこからは僧侶の道に進んでいくわけですか?
市橋:
そうですね。大正大学在学中に30歳を迎えたのですが、そのタイミングで『お寺に入るかどうするかを決めろ』と父に言われました。父に頭を下げるのは嫌だったのですが、母を助ける気持ちでお寺に入ることを決断しました。ただ最後まで灌頂(種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式)を受ける事には反対をしていました。
灌頂を受けると僧侶の名前を付けることになります。通常は自分の師匠に頂くもので、私の場合は父から頂くのが筋だったんですが、父がそれを拒否したため自分で考えて付けました。代々受け継がれている『俊』の字と、人体を構成する上で不可欠であり、様々な形に変化する『水』を合わせて『俊水』にしました。
中山:
お名前まで自分で考えることになるなんて、頑固なお父様だったんですね。
僧侶となられてからは、どのようなことを考えながら活動されておりますか?
市橋:
私は、『人の不安を無くす』ことを念頭に活動しています。『不安』と一言で言っても人それぞれで、体のことで悩まれている方もいれば、心のことで悩まれている方もいらっしゃいます。そのような方々に向けて、写経や説法といった手法でアプローチしています。自分のお寺以外にも、読売カルチャーの教室を錦糸町・大森・北千住の3か所で受け持っています。これらはかれこれ10年以上続けている活動です。
また、お寺の敷居を低くすることも意識しています。門前の掲示板をフレンドリーにしたり、お寺の玄関の照明や家具などを少し変わったものにしたりして、いつ来ても何度来ても面白いお寺を目指しています。
中山:
確かにこちらの建物も、古風な中にも親しみやすさがありますね。これ自体が市橋さんの狙いだったんですね。素晴らしいです。
改めまして、今回の『宗教を知ろう』へご協力いただけた理由を教えていただけますか?
市橋:
シンプルに面白そうだからです。他宗教の方々との平和な話し合いが楽しみだし、ご参加の方からの質問も、結構楽しみです(笑)
中山:
ありがとうございます。
最後に、観覧される方々へメッセージをお願いします。
市橋:
宗教は怖くないですよ~(笑)
中山:
ありがとうございます!(笑)
●市橋俊水●
東京都出身。パリでの3年間の放浪の旅の後、大正大学で仏教を学ぶ。在学中に僧侶となり、自身の実家でもある明王院(東京都港区)で僧侶としての活動を始める。現在は1児の母でもあり、夫が同院の住職を務める。
自坊での活動の他に、真言宗豊山派の布教師として読売カルチャーで講義をするなど、積極的に活動している。
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