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変えるべきではない本質

4/3のブログです。


こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


今日は、不定期に伺わせていただいているお稽古の日でございました。ということで福岡まで日帰りで行ってきました。相変わらず空港でしか食事をしていませんが、目的がお稽古なので何も問題ありません。今日もたっぷりとお稽古をつけていただけました。


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変えるべきではない本質

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お稽古をつけていただくと、自分は父の影響を多分に受けていることを実感します。特に、声の出し方には影響されている気がして、それが良くも悪くも癖になってしまっています。父はかなり『剛』寄りの声明だったと思いますし、あれだけの『剛』感を出せる人もなかなかいない気がしますが、私には私なりの声明があっても良いはずで、その道を模索している感じでしょうか。そもそも、あの『剛』感は私には出せません。


声明に絶対的な正解はありませんが、ある程度の基準というかルールはあります。父や祖父から習った声明と、今日習った声明とでは違うところがあるのは確かですが、それでも共通するところもあるわけです。やっぱり自分の軸としては父や祖父に習ったものを据えるべきだと思いますが、違うものを吸収して知見を広めることも、それでも共通しているところは普遍的なのかなと受け止めることも、とても大事なことだと思います。


また、声明の背景を教えていただくことで、より深く声明を学ぶことができます。『これは元々こういう場面で使われていたのが派生して、今の形になっているんだよ』とか、『昔はこういう読まれ方をしていたんだよ』とか教えていただけると、表面だけでなく裏の意味まできちんと学ぶことができるわけです。もし今後、時代に合わせた変化を求められたとしても、裏の意味まで理解していれば本質を見失わずに変化ができるはずです。


声明に限らずですが、お寺に入ってからはずっと、変えるところと変えないところの見極めに気を使っている気がします。法善寺ではLINEを取り入れたり、コロナ禍中はZoomでの法要を承ったりしておりましたが、これは時代に合わせた必要な変化だったと思っています。LINEをやっているお寺は圧倒的に少数派だと思いますが、ハガキ→電話→メール→LINEと、連絡手段が変わっているだけで、連絡するという目的は変わっていません。


ただその裏で、法要の簡素化はしていないつもりです。故人を悼む気持ちに変わりはないし、仏教の本質にも変わりがないはずですので、そこを変えてはいけないなと思っています。ただそうはいっても、我々だけではどうしようもない事情があるのも事実で、仕方がない時もあります。ただ、そういう時にでも本質は見失わない対応をしたいものです。


今日もブログをお読みいただき、ありがとうございます。ただそれにしても、時代の変化が早いけんねぇ。



南無阿弥陀仏

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