top of page

失くして初めて気付くこと

1/15のブログです。


こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


UFJ銀行の事件が世間を賑わせています。にわかには信じられない額の窃盗であり、大手の銀行でこんなことがあり得るのかと疑ってしまいます。事件発覚から数ヶ月経って、ようやく内情がわかってきたみたいです。


それにしてもお金というのはどうしようもなく、人の心を狂わせるみたいです。私もそんな経験がないわけではないので、お金に狂わされる気持ちもわからなくはありません。


人間は弱い生き物です。目の前にそういった機会があれば流されてしまうのは仕方のないことなのかもしれません。企業として大事なのはそういった機会すら生み出さないようなマネジメントなんでしょうか。それもまた難しい話ですが。


==============================

失くして初めて気付くこと

==============================


最近は車を長時間運転すると目が疲れてしまいますので、適宜目を休めるためのメガネを使っています。レーシックしているので視力は良く、いわゆる伊達メガネになるのですが、着けると着けないでは、目の疲れが全然違います。


もう37歳ですので、だんだんと老眼が恐ろしい年齢にもなってきました。早い人だと40ぐらいから始まると聞きます。レーシックしている場合はどうなるのかよくわかりませんが、なんとなく早く訪れるんじゃないかなという気がしています。


今は裸眼で生活していますが、ベーシック前はコンタクトで生活をしていました。今考えると当時のコンタクトでの生活は大変煩わしく、様々なことに気をつければいけませんでした。


どこか出かけるにせよ、予備のコンタクトレンズを持ち歩いたり、旅行に行くにしたら何泊するか計算してコンタクトレンズを準備したり。そういったことに気を揉まなくなっただけでも、レーシックをした価値があるなと思っています。


視力にせよ何にせよ、当たり前のように良かった頃にはその煩わしさには気づくことができません。私がまだ子供の頃、祖母がよく『目は大事よ』と言っていましたが、その頃の私には本当の意味に理解することはできませんでした。


コンタクトの時代を経ての今ですので、祖母の言葉はより理解することができています。またコンタクトの生活に戻ると言われたら、正直結構厳しいです。今の裸眼での生活が快適すぎます。


いつまでも、あると思うな、親と金、という有名な川柳がありますが、失ってからようやく気付くようでは、何事も遅いということです。失う前に気づくことができればいいのでしょうが、我々愚かな人間にとってはそれもまた厳しいことです。


それこそもっと年老いてから今の年齢を振り返ると、何でも出来たなあと思うはずです。生き急ぐと言うとあまり表現をよろしくありませんが、今しかできないことが必ずあるわけで、それをちゃんと味わって生きていかなければいけません。


今年もまた、実りある一時になりますように。今できることを見つめながら、歩んでいければと思います。


今日もブログをお読みいただき、ありがとうございます。当たり前すぎる前提を、ありがたく思えるようになりたいものです。



南無阿弥陀仏

-------------------------------------------------------------


Comments


特集記事
最新記事
アーカイブ
タグから検索
bottom of page