寄り添うべき感情と説くべき真理
5/17のブログです。
こんばんは。
法善寺住職の中山龍之介です。
一昨日から、冒頭の『●/●のブログです』の日にちがズレておりました。前の日のをコピーして書き直しているのですが、日付を更新していなかったみたいです。失礼いたしました。
ということで、また今日からよろしくお願いします。
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寄り添うべき感情と説くべき真理
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お葬儀に行くと、たまに会場に清めの塩が置いてあることがあります。一般的に想像される葬儀では当たり前の光景かもしれませんが、浄土真宗では用いないため、もしあったら葬儀社さんに下げてもらうようにお話しています。
清めの塩は、そもそも何から清めているのかと言えば、死という穢れからでしょうか。葬儀に参列して、死者と近くになることで、その穢れを持ってきてしまう、というのが根底の考えにあるそうです。ちなみにこれは、どちらかというと神道の考え方です。
この清めの塩を浄土真宗では用いない理由、それは死を穢れとは捉えない、もっと言えば死は忌み嫌うものではない、という考えからです。ご信心が具わったお念仏を一度でも称えれば、亡くなると同時に、この身を離れると同時に極楽浄土に仏となって往生することが出来る、という教えのため、死は避けることではないと説かれます。
ただだからと言って、死を喜ぶことができないのが我々人間の率直な感情でもあります。父が亡くなったときに、とある方から頂いお手紙の中で、『本来喜ぶべき浄土往生ではありますが、大変悲しい気持ちでおります』という有り難いお言葉をいただきましたが、これが死に触れた我々の正直な気持ちかな、と思います。
また、インドでの話になりますが、ガンジス河沿いにあるマニカルニカー・ガートという火葬場に行ったとき、火葬されるご遺体を見ながら、故人の死を悲しみ、泣いている方々がおられました。火葬を終えると遺灰は、そのままガンジス河に流されます。
インドのヒンドゥー教の教えでは、母なる河であるガンジス河にそのように還れるのは、何よりの幸せである、と説かれているそうですが、悲しむ気持ちが無くなるわけではありません。インドって宗教色が強くて、みんな私とは全然違う価値観で生きているんだろうな、と思っていたので、その光景に衝撃を覚えました。
仏教において、というよりも宗教においては、様々な真理が説かれます。おそらくそれらは、多くの人にとって納得できるものが沢山あるはずです。ただそこに個々人の感情がついていけるかは全く別の話です。
とは言っても、感情論ばかりに終始していては宗教者としての意味もありません。感情に寄り添う、だけど説くべきことはしっかりと説く、このバランスがとても大切です。
少し前の自分なら、葬儀会場に清めの塩があっても何も言えなかった気がしますが、言えるようになったのは自分なりの成長なのかもしれません。嫌に思われない範囲を見極めながら、これからも説くべきことは説いていきたいものです。
今日もブログをお読みいただき、ありがとうございます。すみません、話がぐるぐるしてしまいました。
南無阿弥陀仏
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