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専修専念の義を立てる

6/9のブログです。


こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


今日は木曜日でしたので、夜に声明学園がありました。私が所属する2年生は現在、『御俗姓御文(ごぞくしょうおふみ)』を勉強しております。主に、11月の報恩講の時に拝読するもので、私も得度してから初めて迎えた報恩講で読んだ記憶があります。


得度したのが9歳の年で、祖父から熱心に指導を受けた記憶があります。もう25年以上前のことですが教えてもらったことは割と覚えているもので、あぁここはこう読むんだったな、という懐かしさにふけりながら授業を聞かせていただきました。ありがとうございました。


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専修専念の義を立てる ==================


最近は、少しずつ自分が手を動かさなきゃいけない仕事が増えてきています。来年のカレンダーだったり、今月発行する家庭通信(法善寺の会報誌)だったり。仕事量としては大変ではありませんが、時間がなかなか取れなかったりして少し苦労しています。シンプルにもっとちゃっちゃか動けばいいんでしょうが。


まだまだ限界が来るまで頑張っていないくせにこんなこと言うのもあれですが、自分の力量というのを測るのは難しいものです。これとこれとこれができる、と思っていても、実際に取り掛かるとスキルが足りなかったり、不測の事態が発生したり、完遂することは難しいです。


特に従業員の方々だと、振られた仕事を断るのはかなり勇気がいることです。自分にも経験がありますが、力量やらスケジュール的に厳しくても、ここで受けないと評価が下がるんじゃないだろうか、とか気にして仕事を受け、結局自分を苦しめてしまう、みたいなことは日常茶飯事です。今はある程度コントロールできるのかもしれませんが、それでも何か自分で役に立つことがあるのであれば首を突っ込みたくなるのが人間の性というものじゃないでしょうか。


浄土真宗では、それこそ今日の声明学園の授業でいただいている『御俗姓御文』にも著されていますが、専修専念の義を立てるという言葉があります。『専ら修める、専ら念じる』という意味ですが、まさに浄土真宗らしい言葉ではないでしょうか。他宗派の教えを見聞きすると、『何やら●●もやった方がいいんじゃないか』という気持ちになったりしますが、真宗門徒としては専らお念仏をいただくことのみが説かれています。


自分の力量を見切ることで、そんな様々な行はできないことを覚り、他力にすがりながらお念仏をいただく、というのが極楽浄土への道なのではないでしょうか。凡夫の自覚こそが信仰への第一歩だと思っていますが、そこの第一歩が何とも難しいことだなと仕事との対比でも思った今日この頃でございました。


今日もブログをお読みいただきありがとうございます。何かを選び取るということは何かを捨てるということで、そこにはやっぱり怖さを感じてしまいますよね。



南無阿弥陀仏

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