持ち主のいなくなった場所
12/13のブログです。
こんばんは。
法善寺住職の中山龍之介です。
井上尚弥選手が、日本人初となる世界4団体の統一王者に輝きました。下馬評は圧倒的に有利とは言え、相手も世界王者ですし、勝負に絶対はありません。どうなることかと見守っていましたが、緊張してたのは最初の2ラウンドくらいなもんで、あとは『早く終わらないかな』という気持ちになってしまいました。相手のディフェンスが固かったのでなかなか思ったような展開にならず歯がゆい思いもしましたが、それでも勝ち切るのは流石です。
恐らくこれでバンタム級は卒業して、スーパーバンタム級に転向すると思いますが、そこでどのような戦いを見せてくれるのか、今から楽しみです。こんな素晴らしい選手の全盛期をリアルタイムで追っていけるなんて、何とも有難いことです。益々の活躍を祈願しております。
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持ち主のいなくなった場所
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スマホでライブ配信を見ていたのですが、終わってからもしばらくリングが映し出されていました。つい15分ほど前まではそこに熱狂があり、熱戦があり、多くの人の注目を浴びていたはずのリングですが、誰もいなくなったその姿はどこか寂しくも見えました。リング自体は変わっていないはずなのに、なんだか不思議な感覚です。
この感覚は、先週の声明学園でも感じました。先週から漢音阿弥陀経の授業が始まり、内陣を花びらを撒きながら練り歩く『行道散華(ぎょうどうさんげ)』の話になった時に、実際に目の前に広がる本堂の内陣を見ながら、8年ほど前に行った御遠忌での行道散華の映像が頭に浮かんできました。今は私しかいないけど、あの頃の法善寺は父も祖父もいたんだな、と思うと、なんだか本堂の持ち主がいなくなったように感じました。
うちみたいなお寺とボクシング世界戦のリングを比べるなんて、規模が違すぎて申し訳ないのですが、法善寺の本堂もあの頃とは変わっていません。恐らく初めて本堂に入った人でしたら、そんな変な感覚は持ち合わせないと思いますが、父や祖父がいる本堂の景色が当たり前だった自分は、未だに違和感を感じているということです。いないことに慣れてきたつもりでしたし、今では本堂を自分の居場所だと感じていますが、先週の授業で昔の感覚が蘇ってきました。
三つ子の魂百まで、という諺がありますし、仏教的に言っても小さい頃に刻まれたご縁は深く残りますので、恐らくこの感覚はずっと消えないんじゃないでしょうか。ただ別にそれはマイナスなことではなく、受け継ぐべきものがあるというのは素晴らしいことなはずです。過去美化して現実を悲観することなく、過去の上に立ちながら今を精一杯生きていかないといけないんだな、と改めて気が付かせてくれた声明学園と、今日のボクシングのリングでございました。
今日もブログをお読みいただきありがとうございます。ホント、繋がりの中で生かさせて頂いていると感じる今日この頃でございます。
南無阿弥陀仏
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