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果たして教化につながっているのか

11/27のブログです。


こんばんは。

法善寺住職の中山龍之介です。


喉の調子は回復傾向ですが、まだまだ完全復活とはなっていません。そんな中ですが御本山での御正忌に参勤させていただき、なんとかお勤めできました。


今日は結願逮夜ということで、樂も入った重めのお勤めです。やっぱり生の樂は良いなぁ、いつか自坊でもやってみないなぁと思いつつ、今の自分がやれる精一杯のお勤めをさせていただきました。


これにて今年の私の御本山への参勤は終わりとなります。少ない数でしたが、良い経験をさせていただきました。ありがとうございました。


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果たして教化につながっているのか

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報恩講の時期になると、教化について色々と考えさせられます。何日にもわたり法要を行い、お坊さんみんなで力を合わせて声を張り上げている反面、これがちゃんと教化に繋がっているのだろうか、と申し訳ないのですが冷めた自分もいたりします。


昔ながらのやり方を否定しているわけでもありませんし、そこには言葉を超えた教化があることも分かっているつもりですが、そういった言い訳に逃げてしまっているんじゃないか、と思うこともあります。今までこれでやってきたので、これで良いんです、これが伝統なんです、と歩みを止めてしまっていやしないかと。


御本山も色々と試行錯誤をされているようでしたが、例えば昨日の御伝鈔の間、本堂のモニターで現代語の解説が流されていて、これは良い試みだなと感じました。お経や偈文では難しくて教えが届かなかった方々に、御文のようなその当時の話し言葉や書き言葉が刺さったように、さらにそこから時が経った今の人達に向けた言葉の翻訳は必要だろうなと思います。


ただ、だからと言って伝統的な声明や作法をないがしろにして良いのかと言ったら、もちろんそんなことはなく、この両端で堂々巡りしながら毎日もがいているつもりです。どちらからも、逃げてはいけません。


言葉を超えた教化、言葉に乗せた教化、どちらも大切ですし、人によってどちらが響くかは変わってきます。なので我々僧侶としては、少なくともその両輪は持ち合わせていないといけません。ただ、教化の方法はこれ以外にもたくさんあります。絵とか書道とかもそうです。


法善寺に限らず、宗教法人の規則にはその法人の目的が記載されていますが、文化庁の本に載ってる雛形の通りだと『この法人は、(中略)その教義をひろめ、儀式行事を行い、門徒を教化育成し、社会の教化を図り、その他この寺院の目的を達成するための、財務及び業務を行うことを目的とする』と書いてあります。


規則に載ってるから、と言うつもりはありませんがやっぱり我々寺院の存在意義はこの目的の通りのはずで、教化こそが行動基準になるべきだろうと思います。そこから逃げずにやっていこうと改めて気付けた、今回の御本山参勤でございました。


今日もブログをお読みいただき、ありがとうございます。教化のためにも、健康第一。



南無阿弥陀仏

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