死を受け入れる
5/28のブログです。
こんばんは。
法善寺住職の中山龍之介です。
今日お昼ご飯の飲み物を買いに、久々にマスクを着けずにコンビニに行ってみました。確か屋内でも会話をしなければマスク着用義務はなかったはずだな、と思いながら、口を真一文字に閉じたまま商品を選び、会計をして出てきました。セブンは支払方法をタッチパネルで選べるので、会話しなくて済みました。
こんな当たり前のことですが、おそらくコロナ禍になってからは初めてのことでした。心なしか店員さんも『おい、マスクしてねえのかよ』的な顔をされていた気もしますが、またこれからこういった日常が戻ってくれば良いなと思います。
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死を受け入れる =============
今日は、お寺で飼っていたシンバ(ダックスフント)の49日でした。姉家族も含めて集まり、一応私が法要を勤めて、法善寺内にあるペット納骨堂へ無事に納骨しました。これにて一段落といったところでしょうか。
浄土真宗の場合、納骨するのは49日で、という決まりがあるわけではありません。百箇日や一周忌で納骨するお寺もあるみたいですが、法善寺の場合は49日を納骨のタイミングとして、お檀家さんには基本的に案内しています。
近しい人や、(並列で語るべきじゃないのかもしれませんが)飼っていたペットの死を受け入れるのは、時間がかかるものです。そして、それは段階的に受け入れていくものだと思っています。
人の場合でしたら、亡くなってご遺体が戻り、お顔に白布をかけ、納棺をして、通夜・葬儀をあげ、火葬をし、自宅で御遺骨を安置し、納骨する。こういった一つ一つの出来事によって、少しずつ死を受け入れていくんじゃないでしょうか。そういう意味でも、49日で納骨をするというのはタイミング的に良いと勝手に思っています。
自分の話をすれば、父が亡くなって1年半以上が経ちましたが、まだその死を受け入れられているかと聞かれれば、良く分かりません。いない生活が当たり前になってきたものの、いた生活も当たり前だったので、なんか不意にお寺にやってくるんじゃないかという気にもなります。写真を見ていると語りかけてくる気だってしてきます。
そういう意味では、建替えをして新しい環境で生活することによって、また一つ父の死を受け入れることができるのかもしれません。ちょっと寂しいことでもありますが、遺されたものとしては、感謝の気持ちを抱きながら、前を向いて生きていくのが務めなんじゃないでしょうか。それに本堂は建替えませんので、そこに父の面影をまだ感じることができます。
今日もブログをお読みいただきありがとうございます。時間がすべてを解決するわけじゃないですが、受け入れるのには時間だって必要ですよね。
南無阿弥陀仏
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