見守ってくれる存在
こんばんは。
法善寺住職の中山龍之介です。
三日ぶりに走ってきました。今日は10km、走り慣れた隅田川沿いです。ちょっと膝が痛かったのでペースはゆっくり目でしたが、距離はきちんと走ることが出来て良かったです。これで累計91.5km、目標の100kmまでは8.5kmです。今週中の達成は難しくなってしまいましたが、月曜日には達成できそうです。来週末は天気も悪くなりそうなので、とっとと100km達成してしまいたいと思います。
走り始めて3週間ほど、体重は相変わらずの感じですが、肩回りが細くなってきた気がします。走る時に腕を振っているからでしょうか、良い傾向です。ただ、全体的に痩せるには、そろそろ食事にも気を遣わないといけないのかもしれません。食べることが好きなので辛いところですが、実際にはそんなに食べなくても満足できるようになってきましたので、自分の容量を見極めて食べていきます。
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見守ってくれる存在
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さてさて、最近はランニングや書道のことばかり書いているどうしようもないブログですが(本当にすみません)、お檀家さんから『読んでますよ』と言われる機会も増えてきました。本当にありがたいことで、継続は力なりということを改めて実感しております。
このブログは、ホームページで読まれている方もいれば、フェイスブックに転載しておりますのでそちらで読まれている方もいると思います。どちらにせよ、誰にも見られていない状況ならここまで続けられていないことは間違いないので、『見られている』ということが毎日頑張る力を与えてくれています。改めて御礼申し上げます。本当に有難うございます。
人の目の力ですが、一説によれば100m走も観客がいなければ未だに10秒を切っていないそうです。また身近な例で言えば、今季のNBAは無観客なので、心なしかプレーに熱が帯びていなくて淡々と過ぎているように見えます(それでも開催してくれていること自体に本当に感謝してます)。それだけ人の目は力を持っているという事でしょう。
また、病気や怪我の治療をすることを『手当て』と言いますが、これは昔は本当に『手を当てていた』からそう呼ばれているそうです(#諸説あり)。子供の『痛いの痛いの飛んでいけ~~』みたいなノリかもしれませんが、痛いところを誰かに触ってもらえるだけで痛みが和らぐというのは本当にあります。私も、足の小指をどこかの角にぶつけたら、まずはその小指を手で包んであげています。
どっちも不思議なものですが、どうやら人間というのは、見守られていることで力が出る生物みたいです。これって阿弥陀様と我々との関係でも言えるな~と、少しお坊さんらしいことも考えてみたりします。
ご存知の通り仏教にはたくさんの仏様がいますが、阿弥陀仏は『病気を治す』とか『商売繁盛』みたいなことを謳っている仏様ではありません。いつでも誰にでも降り注ぐ光の仏様で、カンタンに言ってしまえば『私の名前を称えたものは必ず救うぞ』と仰っている仏様です。じゃあ現世の我々にとっては何の利益も無いのか、と思うかもしれませんが、そんなことは決して無いな~と最近思っています。
前述の通り、阿弥陀仏は『光』の仏様です(大事なので2回言いました)。不可思議な光で、いつでも、どこでも、誰のことも見守っている仏様なんですね。
私も自分自身が嫌になって、今の状況から逃げ出したくなることもありますが、そんな私でさえも阿弥陀仏の光は降り注いでいます。どうしようもないこんな私を見守ってくださっている存在がいると思えると、心がふっと楽になります。そして、阿弥陀仏や亡くなって仏となった御先祖様たちから『精一杯頑張ってみなさい、見守っていますから』と言われているような気がして、そんな言葉に見事乗せられて『よし、頑張るか』という気持ちになるんですね。
『宗教を知ろう』を開催してみても感じましたが、こういった心の奥底を少し持ち上げてくれるような力を与えてくれるのが宗教なんだろうな、と思います。牧師の広田さんが『宗教は優しい』と仰っていましたが、正にその通りだなぁと日々感じてきています。
日本では、宗教が悪いもののように扱われることばかりですが、こういった正しい面も伝えていかないといけません。ランニングのことばっか書いてないで、少しは真面目な回も増やしていきます。
今後ともこのブログを、そして法善寺をよろしくお願いいたします。
南無阿弥陀仏
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